Vermilion blossom
聞いた事のある話。
その時はそれがどうしたとしか思えなかったけど、
ねえ、
君は今幸せですか?
暖かい風。
寒さの厳しいハイランドにもようやく春が訪れる。
「ねえシード、何処まで行くの?」
「ん?ちょっとそこまで」
退屈な仕事を抜け出して馬に彼を乗せて。
「あそこ?」
「そうだよ」
目の前に広がる桜並木。
風が吹くと、
まるで吹雪のように桃色の花びらが舞う。
その中でもひときわ大きな樹の前で馬から下りた。
「すごいね」
「だろ?こないだの仕事の帰りに見つけたんだよ。くーちゃんと見に来ようと思ってさ」
樹の下まで歩を進めて見上げる。
まるで世界がそれだけで埋め尽くされているかのような錯覚さえ起こさせるほどで。
「ありがとう」
後ろにいる彼を振り返って微笑むと、
長身の彼は葛葉を覗き込むようにして1つキスを落とした。
「また来年も来ような」
そんな嬉しい約束と一緒に。
幸せだったのに。
デュナン統一戦争の終末。
最後の最後までハイランドを大事にしたシードは、
その全てを国に捧げて死んでしまった。
シードが選んだ選択肢なのだからと、
彼はその小さな身体で彼を抱き締めたまま、
恨み言1つ言わずにただただ泣いていた。
それは見ていて本当に痛いくらいに。
そんな彼とを、
シードの遺言に従って崩れ行く城から連れ出した。
泣いていた彼は更にその顔を悲壮で歪ませたけれど、
それでも彼は何も言わずについてきた。
腕の中の大事な存在を離す事なく。
そのうち彼はシードのお墓を作った。
何処に作ったのか聞いてみたけれど彼は答えなかった。
毎日山のように花を抱えて彼は通い続けた。
どんなに日照りが厳しくとも、
どんなに寒さが厳しくとも。
ところが春になって桜が咲き始める頃になると、
彼は手ぶらでそこへ行ったようだった。
そこへ通うのはいつもの事。
特に気にも止めずに彼が出かけていくのを見送っていた。
でも暖かい地方であるこの辺りの桜が葉桜になりかけた頃、
彼は帰って来なかった。
その代わりに感じる右手の疼き。
紋章が告げるまま転移魔法を唱えた先は、
満開の桜の樹の下だった。
これほどまでに綺麗な桜があるだろうか?
その下に広がる赤い湖。
その中に横たわる彼を抱き起こした。
「葛葉……」
「ねえ……咲いたね……」
その言葉に疑問を感じて。
ああ確か。
ハイランドが陥落したのは、
こちらの涼しい地方でも桜の時期が終わる頃だった。
「………見に来るって……約束、したよね……」
ああ彼は、
今こうして抱き上げている自分の事を最愛の彼だと思っているのだろうか?
「………そうだね」
大きく口を開いた彼の手首を取って呪文を唱えようとしたけれど、
やんわりと彼は首を振った。
「ねえ……どうして、シード、いないのかな……」
とうの昔にいなくなったのは知ってる。
それでどれだけ自分が泣いたのか忘れたわけじゃない。
でも約束通りに桜の所に来たのに、
約束通りにあの樹の下にいるのに、
どうして彼はここにはいないんだろう?
ああ神様。
もし次に僕が口にする言葉が罪になるのなら、
その引き換えに彼の幸せを下さい。
「くーちゃん」
ゆっくり確かめるように口にして。
彼の最愛の人だけが呼んでいたその愛称。
僅かながら腕の中の彼は微笑んだ。
ゆっくり閉じられていく瞳。
「………くーちゃん、愛してるよ」
昔誰かに聞いた覚えがある。
桜の樹の下には死体が眠っているって。
その時は別に何とも思わなかった。
でも今はわかる。
誰も知らないあの場所は静かさと美しさを湛えた聖域。
「この樹だけ…僅かに朱に近いね、くーちゃん」
優しい風を吹かせた歴史の傍観者は、
静かにその場所に背を向けた。
彼の幸せを祈りながら。