Aftereffect
『ただ今の僕がわかっている事は、僕の気持ちは未熟であっても君だけに向けられているという事だけ』
今からでも君に届くというのならば、届ける事を許されるのならば、僕は何もかもを投げ捨てて叫ぶだろう。
たった一言、僕があの日から抱え続けている気持ちを素直に表現する言葉を。
「ルックの事、だいすきだよ」
何時の日からだっただろう、彼がこの言葉を毎度繰り返すようになったのは。
彼は自分にとって3年前からの大切な存在である、彼が嫌うから使わないけれど、
彼に厄介者を預けた奴が使ったものと同じ『親友』というような意味で。
知人というだけならば顔と名前も一致しないくらい鬱陶しいほどに多かったけれど、そんな自分には友人格に当たるような人間は皆無に等しく、
だからこそ彼の言葉は嬉しかったのだ、顔にはけして出さなかったけれど。
人間として自分が彼に嫌われている事はないのだと毎度毎度裏側で安心しながら。
「そう、僕も君がすきだよ」
どこか苦笑混じりに―――何時だったか読んだ本に貰った言葉への返事はきちんと返せと書いてあったから――そう答えると、
途端に彼の純真そのものだった笑顔に翳りが僅かに混じる。
しかしそれを窺わせない様にはたまたなかったものとするかのように、彼はまたふわりと微笑んで同じ言葉を繰り返す。
そしてまた同じ言葉を自分も彼に繰り返す。
傍から見れば何をやっているのだと首を傾げられる光景なのかもしれない、
それでも自分と彼にとっては……もしかしたら自分にとって、だけかもしれないが毎度顔を合わせる度に行われる『儀式』のようなものだった。
そのものが持つ意味の大きさをたとえ他人に理解される事はなかったとしても。
尤も、誰も自分達の邪魔をする事はなかったけれど。
あの解放戦争後、彼はいい機会だと言わんばかりにただ1人遺った最後の家族を置いて旅に出た。
当然彼の友人…いや、その時最も近しい存在だったらしい自分さえも置いて。
簡単に言ってしまえば厄介者の存在が怖かったからだろう、その威力のあまりの大きさに対して。
しかし彼はその数年後に戻って来たのだ、新しい厄介者と共に。
前から持っていたものは精神を削るが新しく加わったものは命を削っていくものであったから旅を続けるのも限界だったのかもしれない。
彼が『行方不明』である事を知る人間はそれは数え切れないほどに多いが戻って来た事を知る人間は彼を入れて世界に4人しかおらず、
そのうちの1人である最後の家族は帝国からの依頼によく狩り出されるためほぼ彼は家に1人きりという事になり、
だからというわけではない……道徳観念に五月蝿い人間ならば『同情』という言葉も使うのかもしれないが、
とにかく自分は彼の元に時間を見つけては会いに行くようになったのだ。
そうして、現在に至る。
人が何と言おうが自分にとって彼は本当に大切な存在である。
そして彼も自分がこんな状況の中でもずっと側にいるからあの言葉を繰り返すわけではない。
それがお互いにわかっているからこそあの『儀式』は続くのであろう。
「じゃあ、そろそろ。また来るよ」
そう言うと彼は淋しげな顔になり、毎日の事ではあるがそれを見るとどうにも帰り辛くなってしまう。
彼を安心させるためなのか戸惑いを感じている自分を落ち着かせるためかもう1度同じ言葉を繰り返すと、
「うん。また、来てくれる?」
言われなくても。君の側は居心地がいいから。
心の声は隠しておいて頷くと転移魔法で本拠地に帰る。
この繰り返しが自分と彼の生活の基盤であった。関係の基盤であったと言えるのかもしれない。
ほぼずっとベッドの中で過ごさねばならない彼にとって、開けて貰った窓から見える景色が唯一外界の時間の流れを知る術である。
家の前の街路樹が綺麗に色付き始めた頃に彼の家に行くと、3年前の軍医がちょうど診察を終えて帰る所であった。
「久し振り」
そう声をかけるといつも落ち着いているはずの軍医は酷く驚いたらしい。
その顔はまるで背後から声をかけられたからというより見つかってしまった、というものに近かった。
かすかに嫌なものを感じたけれど彼の部屋に入ってしまえば意識の端の方に追い出されてしまい。
『気にしても無駄な事』として処理されるまでに時間はそう掛からなかった。
彼の笑顔にいつもよりも翳りが混じっている事へ意識が向いていたのだから。
彼の中の厄介者はゆっくりとだが着実に彼の内部を侵していた。
どう頑張っても完全に治るものではない事は彼自身が1番よく知っていたしまた彼に聞かされてもいたから、
愚かな人間がやるように不安定になったり医者に縋り付いてしまうような事はなかったけれど。
それでも新しい年を迎えてしばらくした頃から僅かに今までの『儀式』が変わってきた、気がする。
けれどそれに対して意識を払う事はなかった。
その変化を指摘するのなら毎度のこの行為さえもその対象に当たると考えたから。
いや、でも本当は気にしていたのかもしれない。
「ルックの事、だいすきだよ」
「そう、僕も君がすきだよ」
「……ルックにちゃんと伝わらなくても、僕はずうっとルックがすきだよ」
「………僕もすきだよ」
自分も。彼も。
あの日、軍議のために帰らねばならないぎりぎりになって彼はもう1度繰り返した。
「ルックの事、だいすきだよ」
「僕も君がすきだよ」
「……ルックにちゃんと伝わらなくても、僕はずうっとルックがすきだよ」
「………僕もすきだよ」
「ルックのくれる『すき』と、僕がルックに言う『すき』は違うかもしれないけど、それでも……」
彼の言葉の意味がいまいちよくわからない。
それが珍しく顔にしっかりと出ていたのか彼は困ったように小さく笑って、言った。
「ルックは違うかもしれないけど、僕はルックの事、すきだよ」
「だから……」
「違う、の。お友達じゃなくて、僕はルックの事がすきなの」
だったら君は僕をどんな対象としてすきでいるの?
「会えないと、淋しいよ。あの頃みたいにずうっと一緒にいて貰えるわけじゃないから、悲しいよ。
普通のお友達にももしかしたらそういう風に思うのかもしれないけど、でもそれよりももっとずっと痛いの」
「どういう……?」
「ルックは、お友達として、僕の事すきって言ってくれるのかもしれないけど、僕は違うの。ルックの事、お友達としても大事だよ?
でもそうじゃなくて、人間としてすき嫌いとかそういうのでもなくて、上手く説明出来ないけど『愛してる』とかそういう、『すき』なの……」
必死な顔をして紡ぎ出される言葉。
そういう事には疎いと自覚のある自分にもどうにか彼の言葉は頭の中で形にはなってきたけれど、
彼の一歩が足りないのか自分の理解が追いついていないのかよくわからない、
時間切れぎりぎりに返した自分の言葉はあまりに簡単なものだった。
「………僕も君が『すき』だよ」
本当はちゃんと向き合って返事をしなくてはならなかったのに軍議なんて無視を決め込む事だって出来たはずなのに、
そんな返事しか出来なかった自分はもしかしたら逃げたのかもしれない。
彼の言葉は嬉しかったしきちんと心にも響いてきた。
でも裏切られたとかそういうのではなくて、彼から向けられていた『すき』の形が違うものであった事に戸惑ってしまったのかもしれない。
しかし彼はそんな自分に怒る事も呆れる事もなくただ小さく微笑んだだけだった。
見ていてこちらが泣きたくなるほどに弱々しいそれを浮かべて、転移魔法の光に包まれた自分に彼はもう1度繰り返した。
「ルックにちゃんと伝わらなくても、僕はずうっとルックが『すき』だよ。ずっと、『すき』だよ」
翌日、トランの方へ物資を買出しに行くとの事で小猿に付き合わされた。
その見返りと言っては何だが買っている間側にいる必要もないだろうと告げて彼の家に行ったのだが。
「………もう、来ないで貰える…?」
ドアの向こうから返って来たのは沈んだ彼の最後の家族の声。
「何で?」
「………私は別に、坊ちゃんの事だから踏み込むつもりはなかったわ。でも、ここまで飄々としているのは許せないのよ」
「は?」
話が全く見えてこない。
「………坊ちゃんは私に何て仰ったと思う?『ルックに、ちゃんと伝わってないみたいだけど、それでも僕はいいんだ』よ」
「昨日、の……」
「もっと時間があったなら、私もこんな風に思わなくて済んだのかもしれない、でも……」
「何?」
「………坊ちゃんがあなたのせいで痛みを感じながらその時間を終わらせられたのがきっと……」
「待ってよ、葛葉は……」
「亡くなられたわ、昨日の晩。あなたが帰ったすぐ後に」
彼がもうこの世界にはいない?
「真の紋章は何かあったら互いに引き合うと言うけれど、あなたは何も感じなかったでしょう、あなたは坊ちゃんの気持ちを理解していなかったのだから」
あの時に逃げてしまったから?
「………私が言っている事は、おせっかいな第三者の言葉なのかもしれない。
あなたが坊ちゃんに対してどう思っていたのかわからないし、あなたにも坊ちゃんと同じように考えろとは言わない。
でも坊ちゃんに会う事は、私が許さない。例え坊ちゃんがあなたを許していたとしても……
例え何があったとしても拒絶するとしてもあなたには坊ちゃんの言葉にきちんと向き合う義務が、あったはずだから」
その言葉はまるで鉛のように心の中に音を立てて沈んでいった。
彼が望んだ通りに極僅かな親しい人間しか呼ばれなかった葬儀に行く事も彼女に拒絶され、
結局自分はあの日以来彼の顔を見る事が出来ずじまいのまま彼はひっそりと埋葬されたのだそうだ。
気遣ってくれた師匠から彼女には内密にという事で眠っている彼の居場所を教えられたけれど、
今の自分では彼に会う資格など全くないように見えて会いに行く事は出来ないと思った。
その後の自分としては自分なりに必死だったかもしれない。
今まで毛嫌いして近づきもしなかった、彼が読んでいたような恋愛小説を、
彼の思想の基盤とも言えるらしい哲学や思想の本などを全てを捨てて読み耽った。
そうしたところで結局の所自分が気付くより他にないと理解してはいたけれど少しでも彼の思考に近づきたかったから。
けれど自分にはまだよくはわからない。
何故「すき」の形はたくさんあるのだろう?
彼が自分に向けてくれた「すき」と自分が彼に答えていた「すき」はどう違っていたのだろう?どうして違っていたのだろう?
自分は彼の事をどのように「すき」だったのだろう、今はどのように「すき」なのだろう?
けれど今になってようやくわかった事がある。
自分は彼の気持ちに対してストレートに返していたようで実は違っていた事。
自分が返事を返す度に僅かに見えた翳りは自分と彼の気持ちの方向性の違いに彼が傷ついていた証拠だという事。
医者から無理矢理聞きだした事だけれど、彼は自分の残り時間の事をきちんと知っていたという事。
だからこそ彼は最後にあのように言ってくれたのだという事。
そして自分は永遠に彼に面と向かってあの言葉への返事を返せないのだという事。
それに気付いて初めて、翡翠色の宝石のようだと彼が褒めてくれた瞳から涙が零れ落ちた。
毎年彼の命日になると彼女は大きな花束を抱えて彼に会いに行く。
掃除と長い黙祷の後帰っていく彼女の姿が視界の端に消えてしまうまで見送ると、
彼がすきだと言っていた…彼女が持ってきた同じ種類の、しかし色違いの花をその前に捧げて。
「久し振りだね…葛葉」
跪き冷たい石のその下にいる彼の手の気配を探して指を伸ばす。
子供のように温かかったその温度は石を通して伝わってくる事はなく、ただ淋しく指はその上を滑るだけ。
「………今更になってしまうけれど……それでも僕は、君の事を『愛してる』」
あの頃のように返事をくれる彼はいない、一方的だとわかっているけれど、
彼に会う度に『儀式』のように繰り返す、けしてそれは義務などではなく確認と贖罪の意味を込めて。
何度繰り返しても彼にはもう届かない。彼がくれた気持ちを理解出来るのはあの言葉をくれた彼のみ。
「僕には……ここで君を想って泣く資格は、ないはずなのにね……」
誰かを愛するというのは本当にきっと小さな事なのだろう。
毎日飽きる事無く会いに行く事も、同じ言葉を何度も繰り返して言う事も、
普段の生活行動に紛れ込んでしまっていてそれに慣れてしまうからわからなくなってしまう。
けれど自分の中のそれに気付いて更に昇華させる事が出来た人間の気持ちを『愛情』と呼ぶのだろう。
しかしそれに気付く事が出来ないまま今に至ってしまった自分の気持ちは何と呼べばいいのだろう?
『後悔』と言うだろうか?『未練』というものだろうか?それともただの『感傷』だろうか?
どう呼べばいいのかなど自分にはわからない、わかってはいけないのだ。
『恋愛感情』という物を理解出来ないまま彼と別れる事になってしまったのにそれを今更理解しました、というのはあまりに……
「…………『愛してるよ』」
この気持ちを捧げるのは君にだけ。届いて欲しいけれど届けてはならない気持ち。
しかし今までもこれからも変わらない、自分がその言葉を向けるのは彼ただ1人だという事だけは。
あれから遅くなってようやく目覚めた彼がくれたものと同じ名前の感情を、永遠に開かない鍵つきの箱の中にしまいこんだままで。
あの頃の彼のようにひたすら繰り返す。あの頃の自分に向かって彼がそれでも言ってくれたように……
|